2016年12月28日水曜日

私がフィデルだ 【その2】

服喪の間、流れていたフィデルの追悼番組


フィデル・カストロ前議長が逝去された11月25日から9日間、服喪として、アルコール飲料の販売と「歌舞音曲」が自粛され、テレビは全てのチャンネルで追悼番組が流されましたが、旅行者への影響は最低限に抑えられていたようです。
ハバナ・ビエハのラム酒博物館は試飲も販売も通常通り。レストランバー「フロリディータ」はバンド演奏はありませんでしたが、ヘミングウェイが愛したダイキリは飲むことができました。

28日早朝、「友好訪問団」の皆さんを空港で見送って、カサに向かいました。
フィデルを心から敬愛している大家のマルタは、私を抱擁で迎えるとすぐにフィデルの思い出を話し始めました。若い頃、フィデルの執務室でグアルディア(守衛)をしたとき、つい眠り込んでしまった彼女の頭に、フィデルがそっと手を置いたとか、息子がフィデルに駆け寄って彼のズボンの裾を掴んだとか、ときどき声を詰まらせながらそんな話を聞かせてくれました
「今、生きているキューバ人は、彼が好きとか嫌いに関わらず、すべてフィデルとともに生まれたの」とマルタは言います。女性の地位の確立も差別されることのない人生も、すべてフィデルから始まったこと。だから、すべてのキューバ人はフィデルとともに生まれたのだ、と。

それから、いつも爪のケアをしてもらう近所のマニキュア塗りのおばさんのところに顔を出すと、彼女もまた「フィデルと握手した日の感動」を私に語って聞かせ、涙をこぼしました。革命広場から近いせいか、この辺りの人たちは誰もがフィデルと直接触れ合った経験を持っているようでした。

その日からフィデル逝去に伴う追悼行事が始まりました。革命広場では9時から1時間ごとの礼砲と、一般記帳が行われました。マルタは記帳のために4時間並んだそうですが、その間、ロシアのテレビ局からインタビューを受け、「私はフィデルとともに生まれた。今、生きているキューバ人は・・・」と、私に話した通りに答えたそうです。
革命広場を埋め尽くした人々

翌29日の夜、革命広場で国葬が行われました。
エクアドルのコレア大統領は、フィデルが亡くなった11月25日は、グランマ号がメキシコのトゥスパン港から出航した日で、ちょうど60年目であることから、「トゥスパン港からもう一度、船を出そう。フィデルの思想を守り、さらなる前進のために」と呼びかけました。ボリビアのエボ・モラレス大統領は登壇とともに「ビバ、キューバ!ビバ、フィデル!」と叫び、人々を力づけました。ベネズエラのマドゥロ大統領は、最後にフィデルに会ったとき、彼が「90歳までは君たちとともにいる。だが、私はもう、やるべきことはすべてやった」と言ったことを紹介し、「フィデルは今までも未来を言い当ててきたので、私は非常に驚いて、90歳までなどと言わないでほしいと言ったのだが」と沈痛な声で語りました。
特に強い印象に残したのはニカラグアのダニエル・オルテガ大統領でした。彼は3度、「フィデルはどこにいる?」と問いかけました。革命広場を埋め尽くした人々は、1度めと2度目は「ここにいる(Aqui)」と答えましたが、3度目の問いかけに、「私がフィデルだ(Yo soy Fidel)」の声が沸き上がり、そのまま全員で拳をあげて「私がフィデルだ」コールに発展しました。

その後、テレビでこの場面が流れると「私がフィデルだ」の相言葉が全国に波及しました。

30日から始まった、ハバナからサンティアゴ・デ・クーバまでの葬列では、沿道に集まった人々はフィデルの遺灰を「Yo soy Fidel」コールで迎え、そして見送ったのです。
キューバの人たちのフィデルへの愛、彼の思いを引き継いでいこうという決意をじかに感じました。
この瞬間をキューバで迎えられて本当に良かったです。


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