2017年2月13日月曜日

私がフィデルだ【その3】

1959年1月、ハバナ入城
11月30日、朝7時、フィデルの遺灰が車に安置され、サンティアゴ・デ・クーバまでの葬列が始まりました。
1959年1月1日、革命を成し遂げたフィデル・カストロは、翌2日、サンティアゴ・デ・クーバからハバナに向かってキャラバンを開始しましたが、今回は、ハバナからサンティアゴ・デ・クーバへ帰っていく道です。
ただし、1959年は歓喜に包まれていたのに対し、今回は、多くの人が涙にくれて彼を見送ったのでした。


テレビでは葬列の実況中継が、フィデルの映像、親交のあった文化人のインタビューの合間に流されました。
道の両側を人々が埋め尽くす中、ガラスケースに納められキューバ国旗に包まれた柩がゆっくりと進むと、道の両側を埋め尽くした人々から一斉に「Yo soy Fidel(私がフィデルだ)」の声があがります。
ホテル「ハバナ・リブレ」の横を通り過ぎる葬列
マイクを向けられ、フィデルに、ただただ感謝を捧げ泣き崩れる年配の女性、一方で「私は別れを告げにきたのではない。フィデルに誓いに来たのだ」、「フィデルは死なない。身体的にはいなくなってもフィデルは生き続ける」、「私が革命を前進させる。だから、私はフィデルなのだ」という若い人たちの言葉は感動的でした。
フィデル・カストロが偉大なのは言うまでもないことですが、彼が育てたキューバ国民もまた、驚くばかりです。

フィデルがキューバで革命を起こすためグランマ号でキューバに上陸したのは60年前のこと。シエラ・マエストラでのゲリラ戦を経て革命に勝利し、以来、一貫してキューバの先頭に立ち続けたフィデルの映像は、キューバの歴史そのものでした。
今回、訪問団の皆さんとキューバ共産党の幹部学校であるニコ・ロペス党学校というレアな場所を表敬訪問しましたが、そのときロサリオ・ペントン校長が言った「社会主義を堅持し革命を継続させながら経済発展を勝ち取る。そのためには歴史教育と革命の成果を学習することが大切である」との言葉を、フィデルの映像を見ながら幾度も思い返しました。

街のあちこちでフィデル追悼の展示が見られた
フィデルの葬列は12月3日、サンティアゴ・デ・クーバに到着し、その夜、サンティアゴの革命広場でセレモニーが開かれました。各国の首脳は隣席のみで、労働組合(CTC)、青年組織(UJC)、女性組織(FMC)など国内の組織の代表からの弔辞、そして最後にラウル・カストロ議長から別れの言葉が述べられました。
ラウルが終わり近くになって、夜空に向かって「フィデル、フィデール!」と2度呼びかけたのが印象的でした。生死をともにしてきた兄弟であり同志である2人。彼の目にはフィデルの姿がはっきりと映っていたのでしょう。

翌4日の午前中、近親者によって埋葬が行われました。サンタ・エフィヘニア墓地の埋葬予定地だった場所には、「FIDEL」とだけ彫られたシンプルなプレートを嵌めた大きな石が置かれていました。フィデルは生前から「神格化」を嫌い、銅像などは作らないよう言い遺したと言われています。また、彼の死後、最初に開かれた人民権力会議で「フィデルの名前を道路や橋、建物につけてはならない」との法律が作られたが、これも彼の遺言だったのかもしれません。
カフェに「Yo soy Fidel」の看板

フィデリスタというより、フィデルファンの私としては、在りし日の姿を偲ぶモニュメントが欲しい気もしますが、おそらくそれは彼の意志ではありません。フィデルには生前も死後もないのです。彼の思想を引き継ぎ、革命を進めていこうという人々がいる限り、フィデルは永遠に生き続けるのです。その決意を込めた言葉が「私がフィデルだ」なのだと思います。

YO SOY FIDEL!

フィデルに捧げられた歌:「CABALGANDO CON FIDEL」(フィデルと馬に乗って)

ホセ・マルティとカミロ・シエンフエゴスが馬に乗ってフィデルを迎えに来た、というイメージを抱かせる歌詞になっている。フィデルは今、彼が尊敬し愛した人たちとあの世で楽しく馬に乗っているんだろうと思うことで、彼を失った痛みが少しでも癒されれば、という作者の思いを感じる。



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